韓国随一の穀倉地帯で、おいしい食べ物と豊かな文化の宝庫といわれる전라도(全羅道)。魅力あふれる全羅道の地理と歴史を全4回に分けて紹介します。4回目のこの記事では、日本統治解放後から慶尚道と全羅道の対立までの歴史を見ていきます。「もっと知りたい!全羅道の歴史〈前編〉」「もっと知りたい!全羅道の歴史〈中編〉」と「もっと知りたい!全羅道の地理」も併せてご覧ください。
日本統治解放後の全羅道
日本の統治からの解放後、1948年に起きた제주 4.3 사건(済州島4・3民衆抗争)を鎮圧するため전라남도(全羅南道)の여수(麗水)や순천(順天)に集められた軍部隊が、同じ民族の鎮圧に抗議し反乱を起こした。これが여수·순천 사건(麗水・順天事件)である。
政府は軍を派遣し、約1週間で事態は鎮圧されたが、その過程で反乱を支持した多くの民間人も犠牲になった。この事件は後に「국가보안법(国家保安法)」が制定されるきっかけにもなった。
反乱軍の一部は지리산(智異山)などに立てこもり、6.25 전쟁(朝鮮戦争)の間もパルチザン活動を繰り広げた。
慶尚道と全羅道の対立
1961年に경상도(慶尚道)出身の박정희(朴正熙)は、クーデターを起こし政権を握ると、長期政権をもくろみ、1971年に改憲まで行って三選に臨んだ。
野党候補は、목포(木浦)出身の김대중(金大中)。結果は朴正煕候補が僅差で勝利したが、選挙期間中に、票の伸び悩みから慶尚道対全羅道の構図の選挙運動を繰り広げた。
この結果、地域感情による韓国社会の分断が広がったと考えられている。
もう一つの要因として、朴正熙のお膝元の慶尚道では、さまざまな工業基盤が整備され企業誘致が活発に行われたものの、全羅道では経済開発が遅れたことが挙げられる。
朴正熙が銃弾で倒れた翌年の1980年、韓国現代史最大の事件といえる광주 민주화 운동(光州民主化運動)が起きるが、광주(光州)の学生・市民に対する전두환(全斗煥)ら新軍部による非人道的な鎮圧は、こういった全羅道に対する地域差別にも、その要因を求めることができるだろう。
金大中大統領誕生
1987年の民主化により、この年の12月に、1971年以来16年ぶりとなる大統領直接選挙が行われた。
全斗煥の後釜で軍出身の노태우(盧泰愚)、そして野党から三金と呼ばれる慶尚道が基盤の김영삼(金泳三)、全羅道が基盤の金大中、충정도(忠清道)が基盤の김종필(金鍾泌)が出馬した。
野党が候補を一本化できなかったため、票がそれぞれの支持基盤で分散してしまい、36.6%の低い得票率だった盧泰愚候補が当選する結果となった。
次に行われた1992年の大統領選挙では、金泳三と金大中の対決となり、それぞれの支持基盤である慶尚道対全羅道の構図が引き継がれ、金泳三が当選し、文民政府が誕生した。
いったんは政界引退を表明した金大中が1997年の大統領選挙に出馬し勝利し、韓国史上初めて全羅道出身の大統領が誕生した。
この時の大統領選挙も慶尚道対全羅道の構図が続いたが、2002年の選挙から、慶尚道の有権者は保守系候補に、全羅道の有権者は革新系候補に投票する傾向が続いている。
全羅南道신안군(新安郡)の하의도(荷衣島)で生まれた金大中は、朴正煕政権下で独裁政治に抵抗する、韓国を代表する民主化運動の旗手として活躍し、東京での拉致や、死刑判決など数々の逆境をも乗り越えてきた。
外貨危機の真っただ中で大統領に就任したもののこれを克服し、それまでの対北朝鮮政策を大きく転換し、南北首脳会談にまでこぎ着けた業績が評価されている。2000年にはノーベル平和賞を受賞した。
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