慶尚道の地理と歴史<前編>

もっと知りたい!慶尚道の地理と歴史〈前編〉

地理的に、われわれ日本に最も近い所に位置する경상도(キョンサンド)(慶尚道)。日本で出会う韓国人の中にも、この地の出身の人が多いのではないだろうか。

慶尚道は人も文化も言葉も、서울(ソウル)とはちょっと異なる。慶尚道のさまざまな魅力を知るだけでなく、会話に役立つ雑学も学んでみよう!

慶尚道の地理

한반도(ハンバンド)(韓半島=朝鮮半島)の南東部一帯の地域を指す慶尚道は、元は고려(コリョ)(高麗)時代の行政区分の名称の一つで、경주(キョンジュ)(慶州)の「慶」と상주(サンジュ)(尚州)の「尚」を合わせた名称。

19世紀末に慶尚道は경상북도(キョンサンプクト)(慶尚北道)と경상남도(キョンサンナムド)(慶尚南道)に分けられ、さらに現在では부산(プサン)(釜山)、대구(テグ)(大邱)、울산(ウルサン)(蔚山)は광역시(クァンヨクシ)(広域市)となっており、行政区分として慶尚北道と慶尚南道から独立している。

つまり、慶尚北道や慶尚南道と言うとき、これらの市は含まれない。そのため、天気予報などでこの地域全体を指す場合は영남지방(ヨンナムジバン)(嶺南地方)と呼んでいる。

慶尚道に位置する山脈と川

洛東江と小白山脈の地図
낙동강(洛東江)と소백산맥(小白山脈)

慶尚道を地理的に特徴付けるのが、소백산맥(ソベクサンメク)(小白山脈)と낙동강(ナクトンガン)(洛東江)だ。東海岸沿いに南北に長く連なる태백산맥(テベクサンメク)(太白山脈)から分岐し南西方向に山が連なる小白山脈は、강원도(カンウォンド)(江原道)、충청도(チュンチョンド)(忠清道)、전라도(チョルラド)(全羅道)との道境を成している。

一方、朝鮮半島で압록강(アムノクカン)(鴨緑江)に次いで2番目の長さで、韓国では最も長い洛東江は、太白山脈を水源として慶尚道全域を流れ、남해(ナメ)(南海)に流れ込む。

かつて内陸部を結ぶ交通に利用され、朝鮮時代には、洛東江を境にして東が경상좌도(キョンサンジュァド)(慶尚左道)、西が경상우도(キョンサンウド)(慶尚右道)に分けられたこともあった。

この小白山脈と洛東江が障壁になり、慶尚道は他の地方からの人や文化の流入が比較的少なく、独自の文化を育んだともいわれる。朝鮮戦争の際も、洛東江が韓国軍の最終防御線になった。

海に面する慶尚道の豊かな特産物

慶尚道の東と南は海に面しているため、豊富な海産物にも恵まれている。太白山脈の東側の海동해(トンヘ)(東海=日本海)は、海岸線が比較的単純で漁港が少ないが、ズワイガニ漁やイカ漁が盛んに行われている。

一方、南海は다도해(タドヘ)(多島海)と言われるほど、大小さまざまな島が入り組み、漁港も多く、東海に比べ魚種が豊富だ。

内陸の平野部に目を向けると、南部の김해평야(キメピョンヤ)(金海平野)では稲作が盛んだ。また、大邱を含む금호평야(クモピョンヤ)(琴湖平野)は果実栽培が盛んでブドウや桃の一大生産地だ。

慶尚道の歴史

先史時代から三国時代へ

千年王朝とも呼ばれる慶州
千年王朝とも呼ばれる慶州 (C)Korea Tourism Organization-Lee So-hyeon

旧石器時代の遺物が안동(アンドン)(安東)や포항(ポハン)(浦項)、尚州などから発掘されており、慶尚道の一部では古くから人々が暮らしていたことが分かる。

ただ、慶尚道全域で人々が暮らすようになったのは、新石器時代に入ってからとされている。

さらに青銅器時代の遺物としては、고인돌(コインドル)(支石墓)が慶尚道各地で見つかり、蔚山の반구대 암각화(パングデ アムガクァ)(盤亀台岩刻画)に代表される岩絵も慶尚道に集中して見つかっている。

紀元前2世紀ごろには、朝鮮半島の中南部地方に製鉄技術を持った政治集団が形成され、現在の慶尚道北部に진한(ジナン)(辰韓)が、南部には변한(ピョナン)(弁韓)が位置した。

また、忠清道や全羅道に当たる場所には마한(マハン)(馬韓)があり、この時代を삼한시대(サマンシデ)(三韓時代)と呼ぶ。辰韓は後の신라(シルラ)(新羅)に、弁韓は後の가야(カヤ)(伽耶)へとつながっていく。

三国時代の慶尚道地方

北方に興った고구려(コグリョ)(高句麗)、南西部に興った백제(ペクチェ)(百済)、そして慶尚道の地に建てられた新羅がしのぎを削ったのが三国時代。

新羅は紀元前57年혁거세(ヒョッコセ)(赫居世)によって建てられたとされ、中国の唐と組んで660年に百済を、668年に高句麗を滅ぼした。こうして朝鮮半島の統一国家となり、935年に滅びるまで約1000年続いたということで、新羅は천년왕조(チョンニョヌァンジョ)(千年王朝)とも呼ばれる。

新羅の都であった慶州はいわば韓国の京都のような存在で、修学旅行客や観光客が1年を通して訪れる。慶州の見どころとして欠かせないのが、世界遺産に指定されている불국사(プルグクサ)(仏国寺)や석굴암(ソックラム)(石窟庵)だ。高句麗や百済に遅れて仏教を取り入れた新羅だが、護国信仰や現世利益を求める信仰として受け入れられ、仏教文化が大いに発展した。

慶州の古墳群に隣接する街の航空写真
現在の慶州の街 (C)Korea Tourism Organization-Pyo Gilyeong

三国の一つには数えられないが、慶尚道の南、金海平野にも、42年に수로왕(スロワン)(首露王)を始祖とする금관가야(クムグァンガヤ)(金官伽耶)が興った。

その後、洛東江周辺の小国と連盟を組むが、これらの小国郡を伽耶あるいは加羅と呼ぶ。6世紀に新羅に併合されるまで約500年続き、日本や中国との交流も盛んに行われた。

新羅と伽耶の建国神話、韓国人の姓

新羅の伝説

まずは新羅の伝説から。慶州に六つの村があったが、ある日、井戸のそばに馬が残した卵から美しい男の子が生まれ、体は光を放ち、獣たちが踊り、太陽と月が明るく輝いたため、村長たちは彼を王として推戴した。

これが新羅の始祖とされる赫居世で、卵が(パク)(ふくべ)に似た形だったことから(パク)(朴)の姓を授かったという。

村長たちは後に、()(李)、(チェ)(崔)、(ソン)(孫)、(チョン)(鄭)、()(裵)、(ソル)(薛)の姓を授かった。新羅はその後、(ソク)(昔)氏、(キム)(金)氏にも受け継がれるが、これら王族の姓と村長たちの姓は新羅の土着の姓とされる。

伽耶の伝説

次に伽耶の伝説は、김해(キメ)(金海)の구지봉(クジボン)(亀旨峰)に六つの金の卵が落ちてきたが、その卵の中で最初に生まれたのが수로왕(スロワン)(首露王)で金官伽耶(가락국(カラックク):駕洛国)の王になり、他の卵から生まれた王子と共に육가야(ユッカヤ)(六伽耶)の始祖となったというもの。

金の卵から生まれたことから、首露王は金氏を名乗ったが、この子孫が人口四百数十万人、24の派を持つ韓国最大の一族김해 김씨(キメ キムシ)(金海金氏)である。

首露王はインドから渡来した王女をめとったが、10人の息子のうち2人には()(許)の姓を授けた。これが許氏の始まりである。

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韓国語学習ジャーナルhana Vol. 20「もっと知りたい!慶尚道」
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