韓国語を学ぶ目的からの脱却。辻野裕紀の声で楽しむ「もうひとつのまなざし」

韓国語を学ぶ「目的からの脱却」。辻野裕紀の声で楽しむ「もうひとつのまなざし」

この記事では、『韓国語学習ジャーナルhana Vol. 51』辻野裕紀の連載コラム「もうひとつのまなざし」(P.49)の内容を、さらに深掘りした音声コンテンツの内容を掲載しています。ぜひ本誌のコラムと合わせてお楽しみください。

声で楽しむ「もうひとつのまなざし」

皆さん、こんにちは。辻野裕紀と申します。九州大学で、韓国語や言語学などを教えています。

今回の号から新たに、辻野裕紀の連載コラム「もうひとつのまなざし」を始めることになりました。どうぞよろしくお願いします。

この「もうひとつのまなざし」という連載では、日頃私が言語やことば、韓国語、あるいは言語学習などについて考えていることを、自由に書いていこうと考えています。

「もうひとつの」というのが重要なポイントで、多くの方々が素朴に信じているような支配的な言語観とか、言語学習観から少しずれた視点で言語や言語学習、韓国語といったものを考えてみようという試みです。

そして、この音声のコーナーはそのコラムの内容を少し補ったり、やや深めたりするために設けられたものです。

そのことで、皆さんが少しでも何か気付きを得たり、励まされたり、癒やされたり、あるいは、心の風景が明るく変わったりしたらいいなあと思っています。

第1回「目的からの脱却」

第1回のコラムは「目的からの脱却」というタイトルでして、これだけ見ると、なんだか難しい話かというふうに思われるかもしれませんが、本当に言いたいことはただひとつ、

辻野裕紀

勉強は楽しいよ!ということです。この一点に尽きます。

あなたが韓国語を学ぶ目的は?

まず、皆さんにお聞きしたいのですが、皆さんはどんな目的を持って、韓国語の勉強に励んでいらっしゃいますか?

私は大学の教員ですので、韓国語の学習者というと、日頃はほとんど大学生としか接していませんが、韓国語入門の授業の初回で学生たちに「なぜ韓国語を履修することにしたのか?」と聞くと、「K-POPの好きなアイドルの歌詞が分かるようになりたい!」「韓ドラのせりふが聞き取れるようになりたい!」。あるいは、「韓国人の彼氏を作りたい!」「韓国文学を読んでみたい!」「韓国の歴史を知りたい!」など、いろんな理由を挙げてくれます。

どれも素晴らしい動機だなと思うので、「じゃあ、一緒に頑張りましょうね」と言うのですが、時間がたってくると、だんだんと最初の目的を忘れて「単位のため」「定期試験でいい点を取りたい」「検定試験に合格したい」など、功利的というか、即物的なものに目的が変色してすり変わっていく学生が多くいます。

もちろん、目的が変わっていくこと自体はいいのですが、当初の「新しいことばを学びたい」という内発性に満ちてキラキラしていた感じのものが失われていくのを少し残念に思う時があります。

大学の専任教員として教鞭をとるようになり今年で16年目になりますが、毎年そういう姿を目の当たりにして、もっと学び自体を楽しめばいいのになあと思うこともあります。

「学びは遊び」である

個人的な意見を申し上げますと、学びは遊びだと考えていまして、私にとっては学び自体が目的なのです。

それ自体が目的となるような行為を、マックス・ウェーバーという社会学者は、〈価値合理的行為〉というふうに呼んでいますが、学びというのは価値合理的、つまり学んだ結果とは無関係に「学ぶ」ということ自体に価値があると私は思っています。

マックス・ウェーバー(1918年)

遊びと全く同じように、他に目的があって、そのために遂行するのではなく、学びそのものが目的として成立していて、それがすでに貴い。

要するに、学びの価値は学び自体に内在するのです。別に勉強が得意でも不得意でも関係ないし、学んだものが身に付いても付かなくてもいい。大事なのは愉悦(ゆえつ)、つまり楽しむことです。

ですので、例えば、検定試験に向けた勉強自体が楽しいという人はそれが一番だと思いますし、検定試験そのものを否定する気は全くありませんが、ただ、その結果に一喜一憂したり、人と比べたりするっていうのは、せっかく楽しいはずの勉強を台無しにしてしまう気がします。

韓国語の勉強において「他人と比較しない」

心理学者のアドラーが他人と比較することを否定したのは有名ですが、韓国語の勉強においても全く同じことが言えます。

つとに、哲学者のパスカルは、『パンセ』という本の中でとても鋭いことを指摘しています。

例えば、数学者は「それまで誰も解けなかった代数の問題を解いたということを学者たちに示したいために書斎の中で汗を流す。それはとても愚かなことだ」と書いています。

『パンセ』パスカル著
『パンセ(上)』
パスカル著

これは、現代でも耳の痛い学者が多いと思うのですが、韓国語の学習者も同じで、検定試験に受かって誰かに自慢するだとか、自分はこんなことも知っているだとか、そういったある種の(てら)いのようなさもしい態度からは、距離を置くべきだと私は思います。

辻野裕紀プロフィール画像 辻野裕紀

学びというのは、できるできないとか、他人と比べて上か下かとかですね、そういう次元で測定されるべきものではなくて、ただ学んでいる、そのこと自体に価値があって、とても楽しくて幸せなことなんです。

私が今回のコラムで言いたいことは、大体このような内容で、ぜひ『韓国語学習ジャーナルhana Vol.51』活字のコラムの方もお読みいただきたいのですが、もう1つ簡単に付け加えると、目的を厳密に設定するとどうしても視野が狭くなってしまいます。

寄り道を楽しみながら韓国語と楽しく戯れる

学びというのはプロセスが重要で、その中で「発酵」する(発酵というのは、fermentationのこと)。

学びのプロセスの中で発酵する、目的からは逸脱した、しかし学術的に面白い問いや関心などが目的至上主義のもとでは全て無化されてしまいます。

ナシム・ニコラス・タレブという作家が「学問にとって大切なことは〈非目的論的ないじくり回し=ティンカリング〉である」というようなことを言っていますが、これは韓国語の学習にも通ずるところがあります。

事前に目的を決めてそこに向かって脇目も振らず行こうとするのではなくて、試行錯誤をして寄り道を楽しみながら韓国語と楽しく戯れる。

それが結果的には一番遠くまで行ける方法なのではないかなというふうに私は思います。

ということで、皆さんいかがでしたでしょうか。

今回のコラムが、もっともっと目的や目標という呪縛から自由になって、韓国語それ自体を心から楽しめるきっかけになれば幸いです。

それでは、またお目にかかりましょう。辻野裕紀でした。

辻野裕紀の連載コラム「もうひとつのまなざし」はこちらから

韓国語学習ジャーナルhana Vol. 51
著者:hana編集部
定価:1491円(本体1355円+税10%)
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